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私が医師になろうと決心したのは7歳の時でした。私の父は、東京大学農学部林学科を卒業し、帝室林野局に奉職しましたが、戦後の組織改編により農林水産省林野庁長野営林局上松営林署の署長となり、私が4歳の時に秋田営林局へ転勤となりました。私も、父の転勤に伴い、雪深い秋田県へ長野から移ってきました。住居は秋田県秋田市楢山医王院前町(現在の楢山本町)。医王院前町の名前の由来は、町の東側に真言宗の寺院「医王院」あったことからだそうです。昭和の初頭に医王院は撤去され、私が毎日通っていた築山小学校の正門へ通じる道になったそうです。大学入学後、一度我が家の有ったところを訪ねてみましたが、庭の栗の木は健在で、自分が「長い、大きい道路」と思っていた道路がそうでもないのにびっくりしました。子供の背丈に比すればという相対的なものだったんですね。

今に思うと最初はいじめの対象でした。幼稚園にも3日で登園拒否になり、家でひたすら本を読んでいました。小学校に入学し、授業はとても楽しかったのですが、家に帰ってから遊ぶ相手がいませんでした。私が小1の時に、父は肺結核の診断で(誤診だったのですが)、一人神奈川県茅ヶ崎へ転地療養に出掛けていきました。その頃は外に出れば、子どもたちが大勢いて、群れとなって遊ぶのが日常でしたが、小6の女の子をボスとした集団は、私が「遊んで」というと「惠子毛だらけ灰だらけ、お前の父さん肺病やみ」とはやし立てて、さーと逃げていくのです。そんな時に、我が家の裏に、1歳下のかわいい女の子が何らかの事情でおばあさんに引き取られてやってきました。私が唯一心許せる友達でした。ところが、1年も経たない秋に、彼女のおばあさんはくも膜下出血で帰らぬ人となり、彼女もどこかへ貰われていきました。母に「どうして人は死ぬの?」と聞いたとき、母は「惠子さんがお医者さんになって、人が死なないようにしてちょうだい」と、真顔で話してくれました。その時に、医師になることを決心して以降、その夢が揺らぐことはありませんでした。秋田市立築山小学校、秋田大学学芸学部附属中学校と、学校生活を楽しく過ごし、中学2年の12月に、父親の転勤に伴い、上京してきました。汽車が赤羽に近づいたときに空気が汚いと感じ、「秋田に戻りたい」と言った記憶があります。ただ、自宅は品川区小山台と目黒区下目黒にまたがって4万坪以上にわたるこんもりとした森林の中にある林野庁林業試験場内であり(今では林試の森公園になってます)、環境には恵まれました。品川区立荏原第一中学校、都立日比谷高校を経て、昭和36年に東京大学理科II類に入学、38年に医学部医学科へ進学しました。ところが、私が卒業を控えた昭和41年末に、医学部の紛争が始まりました。卒業試験はボイコットされ、後に遅れて施行されましたが、卒業できたのは昭和42年の8月でした。卒業式は行われず、各自が医学部の事務へ卒業証書をもらいに行きました。卒業はできたものの、大学病院は封鎖されており、友人たちは、各自、知己を頼って日本各地へ散らばっていきました。

 

私は、虎の門病院の研修生として東大病院での研修が始まるのを待っていました。しかし、研修の始まる気配はなく、いつかは米国で臨床をやりたいと考え、学生時代にECFMG(Educational Commission for Foreign Medical Graduates)Certificateを取得していましたので、昭和44年6月内科レジデントとしてニューヨークに渡りました。昭和45年に米国で東大医学部の同級生と結婚し、同年秋にはカナダのモントリオールへ転職しました。ところがここでまたフランス系の住民によるケベック紛争に遭遇する羽目になりました。「フランス語のできないものは出ていけ」となったのです。ニューヨークに戻るのか、東京へ戻るのか悩みましたが、昭和46年に東大病院の封鎖がやっと解かれましたので、日本へ戻ることを決意しました。帰国後、昭和46年、48年に相次いで2人の娘を出産しました。次女が1歳となり、保育園に入園することが叶い、私が東大病院へ戻ったのは昭和49年春です。、日本の循環器医療における大きな後れを実感しました。循環器内科をやろうと決めて、東京大学医学部第二内科坂本二哉先生の研究室に入りました。そのころ、心音図・心エコー図の世界で坂本先生を知らない方はいなかったと思います。坂本先生は日本心臓病学会の創設者でもあります。坂本先生の古今東西の医学に関する博識ぶりには、いまだそれを超える方にお会いしておりません。学会の前の検討会では、非常に厳しいコメントが飛んできますが、一方でまれにみるフェミニストでした。奥様は、日本心臓病学会誌の編集業務のお手伝いもしておられましたが、私が学会に子連れで参加した際には、奥様が子供の世話をしてくださったことには、心から感謝しております。

 

ある日、坂本先生がご自分の著書「心音図の手引き」を下さいました。そこに「天野惠子学姉 真摯、不言実行のファイトウーマンぶりには、いつも敬服しています」と書かれた先生の言葉があり、その言葉は、以後、私の宝物であり、支えとなりました。

 

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2020年11月で満78歳になります。1967年に医学部を卒業してからほぼ53年医師として働いてきました。

 

私が大学へ入学した1961年の18歳人口は1,895,967人でした。1961年の男子の4年制大学進学率は15.4%、女子のそれは3.0%でした。女子は高校を卒業したら、花嫁修業をし、良い結婚相手を見つけることが常識とされていた時代です。私も東京大学理科Ⅱ類に合格した際に、親族から「惠子ちゃんは結婚しないのね」と決めつけられたことがあります。今では(2017年のデータ)男子の55.9%、女子の49.1%が4年制大学へ進学しています。

 

実は、昨年(2019年)の18歳人口は約1,188,000人でした。58年間で約4割減少しています。このまま少子化が進んだら、日本は立ちいかなくなりますね。国土審議会政策部会長期展望委員会は、平成23年に、2050年には日本の人口は9,515万人となり、高齢化率は39.6%という数字を出しています。考えるだけで恐ろしい数字ですね。社会保障制度の破綻が目の当たりに迫っているようにおもいませんか?少子化の問題については、私の長女(馨南子)がニッセイ基礎研究所の研究員としていろいろ情報発信を続けています。関心のある方はリンク先をご覧ください。

 

1967年に医学部を卒業し、インターン期間の1年を経て、1968年に医師免許を取得しました。1968年の全国医師数は、113,630人(男性医師は102,955人、女性医師は10,675人)、男性医師と女性医師の比が10:1の時代でした。

2018年の全国医師数は327,210人(男性医師255,452人、女性医師71,758人)、女性医師が全体の22%です。政府が掲げた男女共同参画の旗印のもと、保守的と言われる医学界でも医師における男女の働き方に少しずつ変化が表れつつありますが、大学病院をはじめとする大病院の勤務医は、最もブラックな職種であることに変わりはないようです。

 

私が、東京大学医学部第二内科に戻ったのは卒後7年目、1974年でした。医局には100人以上の医師が在籍していましたが、その中できちんとお給料がいただけるポストについていた医師は教授1、助教授1、講師3,専門助手10、病棟助手10の25人だけ。残りの医局員は1年おきに契約更新となる非常勤医、給与なしの無休医、他の病院へ出向して働き給与をいただく派遣医、学費を払いながら診療に当たる大学院生といった状況でした。私の場合は「君は旦那が稼いでいるから」という理由で、なかなか助手にしていただけませんでした。私は、、私が教える立場にあった昭和49年入局組の男性医師が9人、次々と病棟助手になってから、一番最後に「昭和49年に入局した人」として、病棟助手にしていただきました。そのころの病棟助手は、実は医局員の投票で決まっていました。このような選挙で決める体制は、インターン闘争の後出来ていた制度だったのですが、現在は医局長をはじめとする指導部で決められているようです。

 

そのころの給与明細をみると、昭和49年4月から昭和50年3月までの25ケ月の間で、お給料がいただけたのは4ケ月。そのほかの月は、無休医。昭和50年4月~昭和58年10月までは、非常勤医として働いていました。非常勤医は、日当制で1年契約。最初にいただいた給与は1ケ月7万8千円でした。

文部教官(病棟助手)としてお給料がいただけるようになったのは、昭和58年11月のことで、その月に41歳の誕生日を迎えました。卒後17年後に初めて正規職員となったということです。そのころはそれが当たり前と思っていたのですが、今思うと徒弟制度そのものでした。

2018年1~5月、国公私立大学の108附属病院を対象に医師の勤務と給与について調査が行われ、「無休医」が全体の7%に当たる2,191人に及ぶとの報告がありました。未だ、何も変わっていないことに驚きを隠せません。

 

 

【参考】

大学病院の無休医、全国で2,000人超、文部科学省調査

https://univ-journal.jp/26623/

名誉教授の独り言(204) 無休医局員:

https://www.chiba-orthopaedics.com/monologue/2982

「無休医、少なくとも2191人」の衝撃~医師の視点~

https://news.yahoo.co.jp/byline/nakayamayujiro/20190628-00132010

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